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天国それとも、ラス・ヴェガス。はたまた地獄

生があって死がある。天国があって地獄がある。Live or Die, Heaven or Hell

 しかし、天国と地獄は死んだものにしかわからない場所だ。天国がいくらいい場所であろうとも、地獄がどんなクソな場所であろうとも。私たちはわからない。ただ今私たちは生きている。私も生きている。だからこの文も書かれている。今この文を読んでいるあなたも生きている。

 ただ生があれば死もある。死というものは私たちはわからないだろうか。それは違うだろう。死というのは実在は掴めなくとも死というものを言葉として頻出させ、また生きている中であらゆる感情を「死」と包含させた経験はあるだろう。また私たちの周りには常に「死」がある。それは言うまでもない。生と死は現世で感じ、また見る事ができる。

 ただCocteau Twinsは現世にはさほど興味を持たないが故に、現世のカルマである生と死を悠々と飛び越え僕たちの分からない天国と地獄にいる。初期の作品群では地獄で繰り広げられてりいる光景にもはや目もくれず非常に冷たく達観している様すらも私は想像することが出来る。また彼女らは詞でも達観した様を貫き通し、地獄は「なんてクソな場所なんだ!」とは歌わず、エリザベス・フレイザーの無機的でありながら妖艶な歌声で何を言っているのか分からない言葉を紡ぎ出し、この場所では共通の言語を持ち合わせていないと教えてくれる。(実際にCoteau Twinsのアルバムには歌詞カードは封入さえておらず、彼女たちの口からは一度も正確な歌詞は出されていない。なので、音楽ジャーナリストやファン、そしてレコード会社さえもCocteau Twinsの歌詞を解読する必要があった。)

 しかし「Heaven or Las Vegas」は様相が異なる。それは今作のアルバムタイトルから分かるのだが彼女らは天国にいる。もっと言うと今作のタイトルにHeavenが入る事によって初めて私たちは彼女らが今までずっと地獄にいたという事がわかるのだ。

 また、今作はドリームポップというジャンルの金字塔として挙げられサウンドは多幸感に包まれもはや暖かみすらも感じる事ができる。それの正体としてあるのは私たちが故郷や過去を懐かしみ暖かみを感じるのと同様に彼女らはHellに郷愁を馳せているのだ。

 それがHeaven or と繋がる言葉を、Hellを選択せず現世、私たちが生活している世界であるLas Vegasを選んだ一つの要因でもある。ただ現世では私たちは言葉を持ち人々と会話をしお互いに感情を巡らすものだ。彼女らは言葉を持ち得ていない。自分達の殻に閉じこもり、彼女らの思考を私たちに一切明かさず、意味不明のものを投げつていた。かつては。

 ただ今作では言葉を聴き取ることもある程度は可能であり、意味をなす歌詞も散見する事ができる。現世であるLas Vegasにいる彼女らにとってはまるで単語を羅列させ意を伝えようとする赤子のように言葉を発しながら、一生懸命私たちと会話をしようとしているのだ。
 
 しかしLas Vegasの裏にはHellも孕んでもいることを忘れてはならない。何気ない私たちの生活は美しく映ることもある。何気なく窓辺から入る日差し。風に靡かれるカーテン。春の兆しを私達に感じさせる風。丁寧な生活を掲げ、自分の世界にだけ閉じ籠る事や、過去に起こった出来事の良いところだけを抽出し郷愁を馳せる営みは天国そのものであろう。

 ただ視野を広げず無関心を貫き通し自分の半径内にしか目配せしなければその営為自体は脆弱性を孕んでおり排外的で分断を引き起こす事は容易く、また過去の良い思い出を眺めるだけでは、今までの歴史の中で起こしてきた過ちを繰り返すことにも繋がり、これら二つは地獄へのエントランスにもなり得る。

 そして、私たち人類は共通の言葉を持ち合わせているので、愛と平和を語り優しさに触れ握手し、ハグすることもできる。ただ会話を忘れ、相容れない人々とは喧嘩をし仲直りする術を知らず戦を起こし、沢山の犠牲も産んできた。

 天国も地獄も紙一重である。どんな物事でも。これは当たり前かもしれない。けれど今世界で起こっている出来事は地獄そのものである。

 ただ今の世界に絶望を受け入れると同時に、Cocteau Twinsが地獄からだけでなく天国からもサウンドを鳴らしたように、世の出来事が両面性があると知っているからこそ再度私たちのすぐ裏には天国があると思考を巡らし考えてみるのも良いのかもしれない。

文:遠藤生