
Frank Oceanの次回作に対する不安
Frank Oceanは2010年代で最も重要な作品の一つである、『Blonde』を2016年に発表した。しかし、それから10年近くが経とうとしている2025年現在の今でも、メディアやファンの注目を集め続けるのは、それ以降も継続的に素晴らしい作品の発表を行なっているからではないだろう。むしろ、作品を出さないこと、パフォーマンスを行わないこと、メディア露出が少ないことによってである。いわば、継続的に作品を出さないことによってであると言える。彼が最後に楽曲をリリースした時を調べると、パーティ好きの女の子すらもが毎日同じグラフの推移を眺めていた時期まで、時間を遡ることになる。それ以来、彼は数度メディアの前に姿を現したり、ジュエリーブランドの立ち上げをしたり、パフォーマンスのリハーサル中に自転車で転倒するなどしたものの、作品の発表をしたわけではない。そんな、作品を出さないことで私たちを魅了するFrank Oceanだが、いよいよ彼の新作について、いくつかの話が上がっている。そこで、今回この記事では来たる彼の新たな作品について書きたいと思う。
ここ最近、彼はInstagramにおける@kikiboyyyyyyyなるアカウントの開設と、Coachella Festivalが開催される砂漠に建てられた看板を通して新たなアルバムを匂わせる行動をしていた。しかし、彼の新たな作品としてここで取り上げるのは音楽ではない。それは映画である。彼は長らく映画監督としてのキャリアを噂されていたが、ようやく今年4月メキシコシティにて監督デビュー作品の撮影をスタートしたという報道がされた。今回の匂わせ以外に、今までも彼の新作の噂は度々ファンや業界を騒がせることはあっても、それらが完成されることはなかった。そのため、この報道をどこまで真剣に受け取って良いものか戸惑うのも事実だが、彼が映画を監督するということに対する疑念と興奮について今の雑感を書き留めておきたい。

Frank Oceanの直近の活動として記憶に新しいのは、2023年のCoachella Festivalでのパフォーマンスだ。彼は三日間あるイベントの最終日のヘッドライナーとして約6年ぶりのステージパフォーマンスを行った。むろん彼の出演が発表された途端世界中の視線は彼に集まった。新作の発表を期待する声や、会場限定でのLPの再販、リハーサルの様子など、始まる前からさまざまな反応や期待を背負って彼のステージは幕を開けるその瞬間を待っていた。
しかし、予定されていた彼のパフォーマンスについてはYoutubeでの配信がキャンセルされた。現地には行けないファンはYoutubeを通じて彼のパフォーマンスを視聴しようとしていただけに、この発表には多くのファンが落胆したに違いない。しかし、この状況こそが彼のパフォーマンスを非常に数奇な運命に導いた。そう、会場にいた多くのオーディエンスが個人のアカウントを用いたライブストリームで世界に向け彼のステージを写したのだ。それは、まるで不特定多数のカメラマンによって無数のカメラが使われた、世界同時公開の一片のフィルムであった。私自身もTwitterでステージの配信しているアカウントを捜し、そのカメラマンの写す彼の作品を見た。このカオスとも呼べる状況が、我々に映画的な感動を与えた瞬間だったのだと思う。常に揺れ動くカメラの映像、押し寄せたファンの熱気が瞬きの音が聞こえるくらいの静けさとぶつかり合い、どこか不可解で甘美なストーリー(楽曲)の連続、断片的に途切れるシーン、他のカメラによって撮られる次のショットへのオーディエンスの視点の移動、そこに映るキャラクターはこちらに一切の共感を許さないかの如くそこに立つ。刻まれたどの瞬間をとっても、それはまさに映画的であるとしかいえない出来事を見せつけられ、気づけばその瞬間が終わっていた。これを映画的という以外にどう形容すべきかを私は知り得ない。

このように、私が来たるFrank Oceanの映画についての文章で、2年前のCoachella Festivalでのステージについて長々と書いているのは、彼の来たる映画作品が、これほどの映画的感動を生み出すことができるのか、という不安が拭えないからである。つまり、このパフォーマンスとそれを取り巻いた状況こそが、彼の映画としての最高傑作になることを恐れているのだ。その瞬間はこの世にある数多の傑作映画で感じるものとも引けを取らない、映画的興奮と感動の連続だったから。
彼がこの場で生み出し得た感動は必然であったのか、はたまた偶然であったのかは判別することが難しい。しかし、世にあるどんな傑作映画においても奇跡的な瞬間というものはあるだろう。むしろ、傑作映画には奇跡的な瞬間がつきものだ。映画とはむしろその奇跡の連続を繋げたものなのかもしれない。だからこそ私はFrank Oceanが奇跡を起こし得る映画監督であるのか、という疑念を持たずにはいられない。また、映画というフォーマットにおいて創作を行うとき、それは彼が音楽というフォーマットの上で確立した彼の表現とは一体なんであったのか、そう問い直すことでもある。音楽という芸術は映画と比べると、より個人と密接な関係にあるといえる。ソングライティングからアレンジ、ミキシングまで1人で完結させるアーティストでいえば、いわばすべて個人の世界を作品に反映することができる。しかし、映画という芸術は個人と同等かそれ以上に商業と密接に関わり合いながら発展してきた。製作に莫大な予算を要し、脚本や出演する人、カメラマン、音声、劇伴といった無数の人間が製作に携わる。そんなフォーマットの上でこそ起こる化学反応はどんな形で彼の創作に関与するのか。また、音楽と映画というフォーマットの違いによる摩擦が、彼の創作にどんな変化をもたらすのかを彼のデビュー作品で我々は観ることになる。配信を拒否したことによって生み出されたあのフィルムとは異なり、配給を経て我々の元に届く作品は、カオスに満ちた興奮を再び我々に与え得るのだろうか。
結局最後まで漠然とした不安とともにこの文章を締めることになったが、不安すらも書き留めたいと思わせてしまうのがFrank Oceanという作家なのだろうか。私は彼の次回作でそれを確かめたい。
文: 田中柊