ダンスは闘争たり得るのか(アナキズムと祈り)
世界は分断されている。SNSのタイムラインには戦火の映像が流れ、ニュースは連日、遠い国の悲劇を伝える。私たちはそれを見て、怒り、悲しみ、そして無力感に苛まれる。しかし、一度画面を閉じれば、日常が押し寄せてくる。労働、消費、労働、消費、労働。このような取るに足らない日常の中で、私たちは何ができるのか。いや、何もできないという諦めが、空気のように社会を満たしている。絶望や諦観に淀む日々の中、ダンスフロアで奇妙な光景を目にする。ストロボの明滅の中で、旗が揺れている。パレスチナの赤と緑と黒、ウクライナの青と黄。始発の電車に運ばれながら、ある一つの問いが、私の頭をぐるぐるぐるぐると回り続けていた。ダンスフロアで掲げられる国旗ーそれらは瞞しなのか、はたまた希望の萌芽なのか。
ダンスは闘争たり得るのか。
占有とダンス
闘争とは、必ずしも拳を振り上げることを意味しない。敵の顔が見えるとは限らない。時に闘争は、ただそこに在ること、消えないこと、忘れさせないことである。踊る身体は、「私はここにいる」という宣言だ。このような可視性それ自体が、不可視化という全体主義の暴力への抵抗となる。それはまさにサッチャリズムの真夜中にRaverがビート上で乱舞したように、あるいはレーガニズムの灰色の街でPunksが肉体をぶつけ合ったように。彼らはシステムを担ぎ、廃墟に忍び込み、シールドを張り巡らせることで、権力によって厳密に区画された排他的な空間を、ダンスフロアという地平に変えてしまった。bomberはcanに指をかけ、Aの文字を環で囲ったシンボルの下に、解放区を宣言する。そう、彼らはアナキストだったのだ。英アナキスト、プリチャードによると、アナキズムとは要するに、アナキストたちが持とうとしないもの(支配者・支配)について のイデオロギーであると同時に、それにとって代わるべきものについての肯定的な記述である。そして、仏アナキスト、プルードンの「所有とは盗みである」というテーゼは有名だが、アナキストは私的所有に対して否定的な立場をとっている。例えば、プリチャード曰く、「私的所有は権力関係であり、そのような関係のなかでは、事物にたいする排他的な管理が、付随的に、他者を支配する能力をもたらす。このような管理は、事物・動産・財にたいする排他的な権原のなかに、つまり、それらにたいする法的所有権・領有権のなかに書き込まれている。それとは対照的に、占有すなわち用益権は、必要に応じて民主的に協議される事物にたいする権原であり、私的所有にたいする防壁である」。要するに、所有は他者を支配する力を伴う。そしてそれは法律によって保障されている。占有や用益権は、その力を制限し得るということである。つまり、RaverやPunksの試みは、この私的所有に対する防壁としての占有行為に他ならないのだ。このようなうねりが地上へと噴き出すことがある。例えば1970年代イギリスではNational Frontという極右政党が台頭し、人種差別や排外主義が街を闊歩していた。その時、Rock Against Racismが生まれた。手刷りの政治・音楽zine『Temporary Hoarding』から始まり、地下のパブでのライブを重ね、やがて運動は路上へと溢れ出した。1978年のデモでは、ヴィクトリア・パークに10万人が集結した。それは単なるコンサートではなく、移動する解放区だった。この時、ダンスは闘争という記号を纏っていたのである。
予示とダンス
なぜアナキストたちは集まり、騒ぎ、踊り、行進するのか。アナキズムには予示という原理がある。プリチャードによると、「この革命戦略は、現在における行動が、未来の成果を予め示していることを意味する。そうでなければ、目的が手段によって腐敗させられてしまうということである」。私は左翼的なイデオロギーの基本とも呼べるこの原理を、ダンスの中に見出している。
未来の自由を空想するのではなく、いまこの瞬間にそれを身体化する。それがアナキストの革命であり、ダンスの政治的可能性である。ダンスは、未来を予め生きる身体そのものなのだ。
しかし、これはプリチャードが指摘するように、ポスト冷戦下という限定的な時代において有効な闘争である。ダンスによってジェノサイドが止むわけではない。政治理念を纏ったダンスは確かに力強い。しかし、その胎動はいかなるものだったのか。政治的な意図だけだったのか。違うのかもしれない。踊る人々は、政治を超えた何かに突き動かされていた。言葉にならない、しかし確かな何か。それを後から「社会闘争」と名付けることはできる。しかし踊っているほんのその一瞬、彼らは政治のことなど忘れていたかもしれない。ただ、踊っていたのかもしれない。では、ダンスから政治性という鎧を脱がせたとき、剥き出しになるものは一体何なのだろうか。私はそれを「祈り」だと考えている。
ダンスは闘争たり得るか。この問いに対する答えは、踊ることそのものの中にある。言語の外の領域で、身体は黙々と抵抗を続けている。ダンスは、重力に逆らい、規範的自己を捨て、空間を占有する小さな革命の連続である。今この瞬間も、ダンスフロアは社会の周縁でどくどくと脈打っているのだ。